幕末から維新にかけて、なぜあれほど個性豊かな人物が登場したのか!?——。
それは「藩校」があったから。激動期の人物や事件そのものではなく、そうした人物を育てた背景にスポットを当てたのが本書。倒幕派の最前線にいた長州藩の藩校が「明倫館」。徳川御三家にありながら志士の聖地となった水戸「弘道館」。会津戦争による藩壊滅の悲劇をもたらした「日新館」の教え。
その他、幕末から維新にかけて、なんらかの役割を果たした藩校のうち、現在も遺構が残ったり保存されているところを著者が訪ね歩く。
いたるところで教育のあり方が問われる今日、人を教えることの大切さを改めて痛感させられる。読んで面白く一度は訪ねたくなる歴史紀行本の決定版!!現在、教師として人を教え、かつ歴史作家の著者なればこその本。
・指導要領も何もなく、各藩は何を、どう教えてもよかった江戸時代
・昌平坂学問所でさえ幕府が開かれて百七十年以上も経って設置された
・なぜ藩校は寛政・天保年間に創設されたものが多いのか
・教育の基本は朱子学。試験に合格しなければ進級できなかった
・反復による徹底した詰め込み教育が行われ、ときに体罰も加えられた
・なかでも独特で、歴史に影響を残し、現在も遺構が残る藩校たち
・大坂夏の陣で千姫を救出した英雄が藩の基礎を築く
・西国で唯一現存し、いまも民俗資料館として使われる
・『孟子』の一節より命名された養老館の名の由来
・数学や蘭学など、当時の先進的な分野が教授された
・伝統と秩序を打ち破る若き藩主が登場する
・大胆な教育改革が実施されたが、事態は予想外の展開へ
・宮司の家系に生まれた岡熊臣が撰した養老館の学則とは
・国学の大家の着任により藩内には向学心があふれる
・長州藩に隣接しながら幕末を乗り切った津和野藩の政治手腕
・かくして養老館の教えが維新後の宗教界を動かすこととなる
・凄惨をきわめた光琳寺でのキリシタン弾圧
・津和野本学から西洋近代哲学への転換を図る
・ただの石見人として葬られることを望んだ森鴎外
・いままさに発掘調査の真っ最中。報告書が出るのは数年後
・明倫館創設にあたり、まず教師の地位を高める
・現在の教育改革に欠けている視点
・どんな地位の高い藩士の子でも、学頭の命令は絶対とされた
・大正時代の校舎をいまも使う小学校に明倫館の扁額がある
・藩校は藩政改革の中心。一万五千坪に拡大せよ
・わずか二年だけ学生を指導した若き教師が尊王攘夷の種をまく
・異人を排除するにはまず異人を知ろうと黒船密航を企てる
・収監された牢獄で囚人に訓話を聞かせ向上心に灯をともす
・わずか八畳ほどの粗末な小屋から幕末維新の志士や偉人が輩出する
・どんな弟子にも声を荒げることのなかった松陰の教育方法とは
・殺すつもりも殺されるつもりもなかったのに刑死されたワケは
・萩を訪れた坂本龍馬が宿泊したのは明倫館の道場だった
・龍馬を脱藩へと走らせた久坂玄瑞の衝撃的な提案とは
・将軍継承の権利を放棄し、自らの存在さえも抹消しようとした初代藩主
・黄門さまは酒をこよなく愛し、船遊びや歌舞伎が大好きな殿様だった
・いまは一片の案内板が立つだけの水戸城跡を散策する
・二百五十年という途方もない時間と費用を費やした『大日本史』編纂
・光圀は将軍綱吉の生みの親だが、それを一生悔いたというワケは
・光圀の綱吉への憎悪の念がやがて尊王攘夷へとつながっていく
・水戸藩で尊王論と攘夷論が結びつくきっかけとなった事件とは
・精力絶倫の将軍の養子縁組により血筋が滅茶苦茶にされる藩が続出
・烈公とうたわれた斉昭による猛烈な藩政改革
・部屋奧に「尊攘」の文字が大書きされた弘道館に足を踏み入れる
・常識を覆す規模、設備、費用を費やした藩校が造られた
・「学問に終わりはない」という斉昭の信念から卒業がなかった
・八卦堂に屹立する『弘道館記』に斉昭の世界観が凝縮している
・僧侶たちの謀略により、突然幕府から謹慎蟄居を命ぜられる
・敷地の中央にある社廟区に立つと斉昭の息吹を随所に感じる
・「志士の聖地」だった水戸藩が維新の頃に生彩を欠いたのはなぜか
・血で血を洗う抗争により弘道館さえも戦場と化した
・江戸城無血開城の身代わりに攻め込まれた会津藩
・「ならぬことは、ならぬ」——。会津の士風を育てた『什の掟』
・藩祖は三代将軍家光の弟。幕閣にいながら領国政治をする名君だった
・“藩是”とされた十五条の家訓が、やがて幕末の悲劇をもたらす
・幕末の動乱の中で、重臣の反対を押して藩主は京都守護職を拝命する
・すでに天明年間には教育目的・教育課程が規定されていた
・天文台・水練池まで備えた東北随一の藩校が誕生する
・戦国時代にさえ例のない数百人の女性が戦死した会津戦争の悲劇
・籠城一ヶ月の末、砲弾で無惨な姿の鶴ヶ城に白旗が上がる
・明治に入っても塗炭の苦しみを味わう会津武士たち
・藩祖は家康との因縁が深い徳川四天王の孫
・藩主の国入りが滞るほどの財政難をみごと立て直した豪商
・風紀の乱れは罰則ではなく教育で正す——致道館の設立
・東北地方で現存する唯一の藩校を散策する
・奥羽越列藩同盟に参加しながら新政府軍の侵入を防げた理由は
・とても江戸時代とは思えない個性尊重の教育
・いまも鶴岡に西郷隆盛の揮毫が多く残る理由は
・ときに異国情緒漂う鶴岡周辺を散策する
あとがき
河合 敦(かわい あつし)
1965年、東京都生まれ。青山学院大学史学科卒業。
現在、都立高校教諭として日本史を教えるかたわら、執筆活動を行う。第17回郷土史研究賞優秀賞、第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。著書に『目からウロコの日本史』(PHP研究所)、『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『土方歳三 幕末新選組の旅』(光人社)など、多数ある。
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